アルミの林檎はアメリカ産

日記のようなもの

“Belle”じゃダメな理由を探している

“竜とそばかすの姫”を見に行ったのは1ヶ月前(7/21)

その後も色々なものを見たり見せつけられたりしたのですが、

なかなかこれに抱いた感情が晴れる様子が無いのでここに吐き出して解決させようと言う魂胆

 

 

公開直後に評論という程で書かれた記事の多くは、脚本の課題を指摘している内容だった記憶がある

まぁ言っている事は頷ける。そりゃ仕事で記事書いているわけだから当然なんだけれども。

 

書いてあったことを適当にまとめると課題は2点

・中盤以降に進行、着地点が不明瞭になる

・最終盤の問題解決が雑、問題が解決していないとも言える

 

脚本が綻びを見せ始めるとそれはスクリーンにも当然現れてくる

実際に中盤以降のシーン間、強いてはカット間の接続は寒々としたものだった

大量に差し込まれる無音とブラックのスクリーンは否が応でも物語から観客を醒させる

“無理をしている”ことはボンヤリ観ていても気づく

 

それを容赦なくねじ伏せる音楽

エンドクレジットを見ればそりゃ納得な品質

 

 

改めて書いてみれば散々な出来のように見える

でもその割にロングラン、ヒットもしてる

ネームバリューの効果?

 

自分の感想としては、

“ちょうど良い軽さがあって爽やか”

“音楽は非常に良かった”

“人に勧められる”

とポジティブだったんですね

それは結構今でも変わらず

 

 

脚本でもっとも評価できた点は、今の高校生から見えている世界というリアリティがとても感じられたところ

 

高校生はすっかり過去のものとなった人間ですが、大学にいればちょっと前まで高校生だった人達がいたり、ついこの間まで実習で高校生を相手にしていたりしたのでなんとなく彼ら彼女らから世界はどう見えているかがわかる、、ようなつもりでいる

 

最近の子供達にとって“死”は行動としてとても遠いところにある一方、言葉として非常に身近なところにある

日常コミュニケーションにおいて簡単に自分の命、相手の命をやり取りするその姿は無邪気にも感じる

そんな彼ら彼女らの日常と、物語の台詞の中で行われる日常のコミュニケーションというのは全く性質の異なったものであるが、そのような空間においても簡単に“死”を口にさせていた

該当箇所は引きの1カットだったが、そこに脚本家の腕の良さを最も感じた

 

 

それともう1箇所、リアリティを感じたのは崩壊ギリギリだった最終盤

とにかく無茶苦茶で、主人公が歌うことだけを考えて書いたんじゃないかというような脚本

 

そこの端々で感じる今の社会に対する厭世観、大人に対する諦め、

これだけはリアルなんじゃないかと

そしてフィクションの突飛な行動へと展開していく

解決には至っていないかもしれない

でも目の前の大人達はこれ以上の手段を取ってはくれない

 

今日も世界は歪な姿を、間違った形を維持しようと懸命に動く

私たちには何もできない、それはこれからも、受け入れていくしかない

そんな希望がない世界こそ今の高校生が見ている世界のように思えて仕方がないのです

 

 

今スクリーンに映っている世界もこの世界とそう変わらない、そう思えた途端にインターネットを舞台にした大スペクタルアニメーション映画は一気に等身大の話に収束します

そして鰹のたたきのくだりだけがフィクションとして残り、それは軽やかに爽やかに進行することで映画は終わる

つまり自分にとって、中盤以降の脚本が崩壊していく様は鑑賞の視点としては問題になり得なかったというところに行き着きます

 

書きながらにして自分の中でもまとまってきた

目的達成

 

 

最後にこれだけ

“竜とそばかすの姫”ってタイトルだけはどうにかならなかったのか

バランスが悪すぎる

 

‘竜’ と ‘そばかすの姫’

 

似たところで思いつくのは“千と千尋の神隠し”だけど、こっちは

 

‘千’ と ‘千尋’ の ‘神隠し’

 

と重心に極端な偏りがない

 

別に“Belle”でも良かったんじゃないのと思ってしまう

“BellじゃなくてBelle”ってくだりも生きていい感じだと思ってしまう

それだと元ネタとモロ被りというのは確かにそうだけど