アルミの林檎はアメリカ産

日記のようなもの

タイミーさんと資本主義

台風一過の晴れた日、
ショッピングモールで昼ごはん。

隣の映画館で映画を見たので5%offになるようだ。良い。

11:40にお店に入る。

注文を済ませ、店の外に目をやると列ができている。

料里が届くまでの間、暇ではあるので店内に耳をこらす。
どうやら12:00から"タイミーさん"が来るらしい。

しばらくすると料里が届く。

早食い(しかし、味わってはいる)なので12:00には食べ終わってしまう。
外は行列。
晴れわたった外に並ぶ人々の顔を見てしまうと少しでも早くこの席を空け渡したいと思えてくる。

そこに、パイトリーダー(?)に連れられて"タイミーさん"が来た。
"タイミーさん"の仕事は
空のコップに水を注ぐこと、
空いた料里の皿を下げること、のようだ。

自分は突然、チュートリアルNPCとして"タイミーさん"の解説役の相方になったのである。

巨大な資本主義の歯車の一つになった瞬間だった。
水を注がれ、空いた器をトレーごと下げられた。(とても丁寧に)

名を奪われたタイミーさん。日本語が母国語でなさそうなタイミーさん。
日本社会に組み込まれる"タイミーさん"と資本主義に押し込められる"私"

レジに行くと映画の半券で5%offになるのは平日だけだと言われた。

繋がらない恐怖への一考察

自宅のインターネットと電話が繋がらなくなった。
我が家はいにしえのVDSL方式なのでダメになる時はいっぺんにダメになる。

繋がらなくなった日は故障原因を突き止めるためにネットワーク機器の配線を全て取り出した。
最大100MBpsという通信線は改めて見るとか細いものだった。

我が家のインターネットが途絶えた日、日本の人工衛星は地上と3.6GBpsの通信に成功したらしい。
比較にはならないが、100MBpsのインターネット通信に蜘蛛の糸のように縋る我が家を、その細い糸すら切れた我が家を思わずにはいられないニュースである。


突然にもここまで繋がらなくなった日として、3/11を思い出さずにはいられない。
自分は小学校高学年であの日を迎え、以来思春期を関東でだんだんと薄まりながら、決して消えることはないFukushimaの陰を感じながら過ごした世代にあたる。

あの日も全く繋がらなかった。テレビだけは繋がった。
母と兄弟はその日のうちに自宅に集結できたが、父親は隣県の食品工場で働いていたのでその状況がよく分からなかった。

その日の夜だったか、翌日の夜だったかに父親は帰ってきた。
全身にフリーズドライの粉末醤油を浴び、拭いても匂いが取れなかったらしく、全身が美味しそうな匂いだったことを覚えている。

これが繋がらなくなった最初の記憶。

今年高校1年生の弟にとってこの頃の記憶は曖昧なものであって、それもみんなでキャンプみたいで楽しかったというくらいである。
その後の計画停電が夕食の時間と重なり、ろうそくで灯りを確保しながらイワタニのカセットコンロで鍋を食べたのが印象的な非日常だったのだろう。

閑話休題

繋がらない恐怖から始まったのがLINEとTwitterの普及であり、今でも自分以上の世代がTwitterがどんなに悪くなっても離れないのはそこに原因があるのではないかと考えてしまう。
今の大学生、高校生、さらに若い世代にとって繋がることは当然であり、そのためのツールの選択は思考の面でも自由である一方で、そこより上の世代にとって潜在的に染み付いている恐怖、あのとき社会を支配した繋がらない恐怖を軽視しない方が良いと感じるところである。


スマホの通知を見るに、返さなければいけない連絡が溜まっているようである。
残念ながらスマホの通信は移動時くらいしか使わないので少ない分しか契約していないため時期に低速になってしまう。

やむなく徒歩10分のスタバに逃げ込みフラペチーノのグランデを一杯注文。コンセントのついたカウンターに陣取る。
LINE、メール、Slack…ありとあらゆるツールの通知を片っ端から開き、読み、返す…

返事が来る

返事を返す

フラペチを混ぜようとすると紙ストローがぐにゃりと曲がる。
どうやら1時間も座っていたらしい。

繋がろうとする強い意志は、繋がらないことへの恐怖でもあるようだ。
そう思いながら、Wi-Fiに後ろ髪を引かれながら退店。

こう振り返ることで、Discordの通知を見忘れたことを思い出す。

ぼくの、マシン と、ぼく

自宅のインターネットが切れた。多分雷のせいだ。
毎日16時の時報を告げるかのように決まってやってくる雷雲。そいつが放つ一発に我が家はやられたらしい。

インターネットが繋がらないことで、ようやく気づく。
何もできないことに。

仕事の連絡。データのやりとり。プライベートな雑談。スケジュールの管理。動画。ゲーム。

残念なことに(幸福なことに?)コンピュータは純粋たる編集機として机の上に鎮座し、その機能を全うしている。そのため仕事から逃げられているかといえばそうではない。

娯楽といえば偶然にもオリンピックの開会式という“最高の”TVショーと、その後延々と続くスポーツ中継の時期と重なったことで、ややまぎれているところもある。

あとはとにかく紙の本。
KindleApple Booksも青空文庫のブックマークも見れない今では買っておいて埃をかぶってた紙の本たちが大切な娯楽である。
沈黙の春を開いて、途中で中学校の国語の授業を思い出して退屈になって止まり、
いま集合的無意識を、が目に入ったので「ぼくの、マシン」しか読んでなかったなと思って「いま集合的無意識を、」を読み、
その流れでハーモニーを読んで、とりあえず読み切ろうとまた沈黙の春に戻ってきている。

伊藤計劃は読み直し、後の本は初見。
周りの本を読むことで、読み直すとまた新たな視点が得られるというのも読書の面白いところ。


ぼくの、マシン は2002年発表。…!?
たしかに登場する機械は2007年(iPhoneの登場)以前の世界の姿であるが、ソフトウェアの考え方は完全に現代のものである。
そこで描かれるコンピュータの姿はWeb Appやクラウドストレージの考え方そのもの、まるで20年後を見てきてから書いているようだ。
主人公はネットワークから切り離されたコンピュータを真にパーソナルなコンピュータとして大切に扱う。しかし社会はそのような存在を認めず、そのコンピュータはネットワークに繋がってしまう。筐体は同じであってもネットワークに繋がったそのコンピュータを、主人公は真にパーソナルな存在と思えなくなってしまう。
端的にまとめると最近のWindows11広告問題をベースにしたのではないかというくらい“今”を感じる。


そして今、ぼくのマシンはインターネットから切り離された。
真にパーソナルなコンピュータとしてその姿を見せている。

インターネットが回復すれば矢の催促になることは間違いないので、ぼくはコンピュータを起動する。
ぼくのマシンは起動するともがきはじめる。
盛んにインターネットに繋がっていないことを画面上でアピールする。
その姿は苦しさや怒りを表現しているようにすら感じる。

しばらく待って、編集アプリを起動する。

“オフラインモードです”

アプリは言うがオフラインでも編集機としての全ての機能は問題なく使える。
パーソナルな編集機(コンピュータ)はファンを回し、熱風を吐き出しながらぼくの指示通りに

選び

切り

貼り


突然エラーを出す。
エラーコードも出てきているが今は調べるつてがない。

“詳しい情報”
ボタンをワンクリック。
ブラウザが開き、一言。

“インターネットはオフラインです”

編集は一時保存。
こうして本に戻っていく。