Virtualと言い始めた人の備忘録
今年は日本で、世界中でお祭りというものができない状況にあるようです。
日本の場合、地域で自治的に行われている夏祭りなどの開催ができないとそれに伴う伝統文化の継承にまで影響が出てくるという深刻な事態のようです。
それが地方の話ばかりかというとそんなこともなく、
意外と大学の学園祭とかもそれに当てはまるようです。
こちらは運営のメンバーが毎年入れ替わるので引き継ぎとかの問題だったりするようですね。
今年は多くの学園祭が学校を会場としての開催を断念してインターネット上での開催を模索する動きも多いようで。
ほぼ本来の学園祭の引き継ぎという点では意味を為さないですから、それぞれがどんな大義を掲げて動いているのかを見れば、それぞれの学生像だったり学校のキャラクターが見えてきそうで楽しみです。
ここでは、いち早く学園祭を完全なインターネットイベントとして開催した学生の一人が備忘録代わりにその考えをまとめてみます。
当然非公式の文章なので各名称等は完全な形で使う予定はないですし、一切運営公式や学校当局は関係していないことは明記しておきます。
本題に入る前に自分の立場を一応説明しておくと、
自分はインターネットイベントの開催を模索する段階から技術面で運営に助言をしていた人間です。
開催決定後はYouTubeを活用する企画のサポートや、ライブ配信企画の技術面について会場決定〜撤収までを総合的に監督してました。
そして"バーチャル"という言葉を今年の学園祭の名称に使い始めた張本人です。
つい先日、地上波全国放送でその名称を見たときは随分大きくなったもんだと思うばかりです。
この記事を日本語で書いているので、インターネットの大海を漂流した挙句この駄文を見る方は国語=日本語である方がほとんどだと思われます。
そういう前提でまずは今回使った"バーチャル"について語った上で、そこに込めたインターネットイベントとしての学園祭の方向性とインターネットに対する個人的な期待をまとめていく予定です。
前置きが長い
ここ数年でVirtualという言葉は日本語のバーチャルとなってお茶の間にまで浸透したように感じます。
"Virtual"がもつ本来の意味、日本語で説明できますか?
"コンピューターで作られたもの"だったりはてまた"インターネット上の"みたいな意味を、日本語の"バーチャル"は持っているような気がしますが"Virtual"に本来そのような意味はありません。
それの延長でVR=Virtual Realityを仮想現実と誤訳する例がかつて多くのマスメディアで見られました。最近はメディア側が気づかれたのか見なくなってきましたね。
これは他の学術用語でVirtual=仮想と訳している場合があるのでそれを無理に当てはめてしまったケースです。
仮想な現実って何ですかね、冷たい松岡修造ぐらい違和感のある言葉です。
Virtualと同義の単語は日本語にないはずです。自分の語彙が足りないだけかもしれないけど。
日本語に無い概念なので説明は複雑になりますが、"もう1つの現実"という言葉を自分はよく使います。
SFもので平行世界って考え方があります。世界というものは自分が観測できているもの以外に、様々な選択肢の数だけ分岐したものが膨大な存在しており、それらは相互に干渉することなく別々に進行するというものです。
自分が観測できる世界がRealだとすれば平行世界がVirtual、というとイメージしやすいかもしれません。
(Virtualな事象というのは観測や想像が可能な状態で存在していますが…)
バーチャルは事象と現実の間に生じる関係性を表現する言葉、となるでしょうか。
VRゴーグルは非常に現実を知覚する状態に寄った方法で視覚を刺激する機器であり、そのようなデバイスで供給されるコンテンツであることがバーチャルを意味してはいないのです。それによって供給された現実と知覚が近似したコンテンツは現実では無いという関係性がバーチャルと言えます。
インターネット上で活躍するバーチャルYouTuber、彼か彼女らは現実世界とは切り離された別個の人格を表面上では獲得している(突き詰めれば違いますが)のでバーチャルな存在と言えるでしょう。コンピューターによって作成された姿ではなく、声や動きの主が現実社会とは違う社会の構成員として振る舞う状態がバーチャルなのです。
そして今回、はじめは"オンライン○祭"と言っていたところに"バーチャル○祭"という名称を提案しました。(一応ボカす)
5月頃に作った資料には"オンライン○祭@上野校地"の対になる存在として"バーチャル○祭@Web校地"という概念を提案するという内容で使い始めています。
これはインターネットに会場を移しても、あくまで学園祭をやるのだという意識を持っていた方がいいだろうという判断からでした。
ここを間違えると学園祭とは名ばかりのハリボテができるような気がします。
様々なことが現代のテクノロジーによって可能になってしまうことに我々も気づいた頃、構想されていた学園祭の姿はお祭りといえないものでした。
学生の作品発表の場を用意して、学生からは作品を集め、作品を見たい人がインターネット上で辿り着くようSNS等で広報する。
これでは全く祭りでは無く、ただの発表会のようなものです。
例年のイベントの代替としてインターネット上でのイベントを考えた時、技術的な開催の可能性を追求するあまりイベントの本義を忘れてしまっている状況でした。
あそこに行けば色んな人に自分を見てもらえる。
あそこに行けば何か面白いものが見れる。
そうやって人が集まり、作品で溢れるのが弊学の学園祭の姿であり、
その本質を忘れずに場所をWeb校地に移した時に何ができて何ができないかを考える。
こうしてできたのが今年の学園祭でした。
こんな名称の話を5月にしていて9月最初の週末にイベント開催っていうんだから随分と無茶したものです。
インターネット上で公開されたお祭りをするという構想、
これは分断の原因になっているとも言われるインターネットツールが持つ本来の可能性に着目したものです。
本来であれば繋がれない人と繋がることができる夢のツール、インターネット。
ここで開かれるお祭りというのは無限の希望があるように感じます。
本来コミュニティを構成するお祭りというイベントに誰もがどこからでも参加できるようになったら、
そこで出会った人同士の交流が起きれば、
インターネットは融和と統合のツールになれるでしょう。
今回は開催中は界隈を中心に盛り上がり、
会期後にマスメディアで取り上げられたところアナリティクスが顕著に変化するという、
インターネットで深まる分断を見せつけられることとなりましたが…
今年の学園祭はインターネット上で開催できたことに意義がありました。
情勢によって余儀なくされたことではありますが、表現と発信について新たな可能性を開拓する貴重な現場になった上、
後世のためにも、表現活動を止めなかった爪痕を残せたことが成果と言えるでしょう。
引き継ぎ資料作らないと…